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wonder88の日記

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2009-01-09

どこまで書けば "空" の少女

00:22

石田は知ることを求めた。上には何があるのか。下には何があるのか。世界の前には何があったのか。世界の後には何があったのか。かくのごとき石田の呪われた思考はブログを得てからというもの著しく成長を遂げる。

石田は書いた。なぜ彼がブログで書くことをその方法に選んだのかは不明だが、彼は書いた。彼にとって書くことはそのまま「修行」を意味する。一般的に書くことは思考の流れを整えることに他ならないだろう。断片の渦に一貫した論理を与えることが書くことだといってもいい。しかし彼の根底を流れる淀んだ川から汲み取れる本質は論理的思考ではなかった。真の知は論理的思考によって得られるものではなく己の身体全体を使い「体得」するものであると彼は考えていた。書くということは彼にとって真の知を体得する術に他ならなかった。問題は、書くことはいうまでもなく頭でおこなうものであり彼が求めるものはそこにはないように思われる点であろう。それでも彼が書いたのはキーボードを叩くという極めて身体的な運動を重要視したためだ。平たくいえば、彼は、書くこと、キーボードを叩くということを真実へ到達する「修行」と捉えブログを更新する実践的修行者ブロガーとでも表現できようか。

石田の書くブログは首尾一貫しておらず、昨日と今日で違うことを書き、時には平気で虚を織り交ぜた。信用からは程遠く当然一般に受けいれられるようなものではなかった。それでも彼のブログにはそれなりに人が集まり更新を待ち望む声も聞こえ始める。それは彼のブログが発足して三年にもなろうからか、たまたま好事家の目に留まったからか、そもそも web にはおかしな輩が多いからだろうか。いずれが真実であるか、またはいずれも真実でないかは定かではない。兎に角、彼のブログはそこそこの注目とそこそこの賞賛を得るに至る。それは彼にとってあまり重要なことではなかった。あくまでブログは真の知を得るための手段であり、すなわち「修行」であり続けた。

四年の歳月を経て石田の修行は円熟をむかえる。彼は精神を飛翔させることなくホメロスの鎖によって心を大地にしっかりとつなぎとめたまま真の知へ到達する。真の知とはあるいは神と呼ばれるものである。超越的一者性の獲得。彼が神概念を自信の内に宿すことに成功したその日の天は普段とかわるところはなく、それほど晴れておらず、それほど曇っておらず、奇跡の予兆ともいうべき閃光なども見えることはなかった。ただ分厚い雲間から差し込む光は彼の日当たりの悪いワンルームに届くことはなかった。その日の気温は普段とかわるところはなく、それほど暖かくもなく、それほど寒くもなく、奇跡の予兆ともいうべき異常気象などは起こらなかった。ただどんよりとした生温い空気が彼のワンルームを満たしていた。ついぞ雨すら降らぬ普段と変わり映えのしないその日に "空" から降りたものは一人の少女だった。彼は日々の打鍵という修行により体得した直観的知をそれまた直観によって少女と規定したのだ。 "心" に宿った少女に彼は直観的に「ゆうこ」と名前をつけた。所謂ところの悟りである。

以来、彼のブログは「ゆうこ」によって更新されている。彼の身体がまずあり、心は「ゆうこ」があった。身体を通じて心に至る結果が彼のブログとなった。いまや彼の、あるいは彼女のブログには "身体" があり "心" がある。心身一如。所謂ところの悟りである。

なぜ彼が、あるいは彼女が未だにブログを更新し続けるかは不明である。

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